ぽめcの脳内を晒す場所

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僕の頭の中をのぞいてみませんか

くだらない話

こんにちは、ぽめcです。

妄想って、楽しいですよね

 

開幕一言がこれなの頭おかしいやつなんじゃないかと思う。

でも、ほんとその通りだと思うんだよなぁ。

バスに乗っている時とか、家でぼーっとしてる時とか、そういう時に結構考えたりするんですよね。

ちなみに僕がいちばん想像を掻き立てられるのはズバリ、風呂ですね。湯船に浸かっている時なんて、妄想のオンパレードですよ。…変な意味じゃないですよ?

…ここで白状すると、僕自身「妄想」という意味をよく理解していません。

僕は「想像」と近い意味だと思って使ってますが、付け加えるなら「想像」は起こりうることを想定することで、「妄想」は絶対に起こらないことや答えのない事について思考を巡らすことじゃないかな~と、勝手に思ってこの言葉を使ってます。暇なときグーグル大先生に聞いてみるか。

というわけで、こんな感じで使っていくので、よろしくお願いします。

 

さて今回は、僕の無い脳みそで行った「『』とは何なのか」という内容についてスタコラ書いていきましょう(僕のくだらない妄想思考を割とそのまま書きます)。

 

 

 

「死」とは、この世の「生」を終えることではなく、「外れること」ではないだろうか。

この世あらゆる柵・束縛・加護から、全てから外れることではないだろうか。

物事の本質は当事者の認知によって決定するものであり、認知されるということは「存在が許される」ことを意味していて、生きているものはみな生を受けた瞬間にこの世の「誰か」あるいは「何か」から認知をされ、生きていく。

 

「認知されること」が生なら,「認知されなくなる」ことが死である。

 

ここで重要なのは「認知されない=死」であるということだ。

生きていても認知されなかったら死ということだ。

ともすれば、死んでいても認知されていれば生きている、ということになる。

 

例えとして僕が死んだとしよう。

例えば病室の一室で僕が死んだとき、この瞬間モニターに映る心拍数は0を示し(モニターから「亡くなったという認知をされる」)、医者達は残念ですが…と言い(モニターがした認知を受け入れる=僕の死を認知する)、その場にいるだろう家族は涙を流す(「医者が認知した僕の死」を認知してしまったことにより)。

 

本来ここで終わってしまう僕も、しかし、『物事の本質は当事者の認知によって決定する』のであれば、僕が「僕」というモノから外れる(死によってこの世から認知されなくなる=外れるため)瞬間、僕は「死んだ僕」を認知することにより死んだ僕を認知する僕の存在が許され、死んだ僕を認知する『僕』を「生」かしているのは、「『死んだ僕』を認知する僕」を認知する僕であり……

これにより、僕が「僕」を認知し続ける限り、「死」を「生」きられるようになった。

 

つまり、死んだその瞬間、僕だけで完結する世界を作り上げることができたのだ。僕は「こちら側」で生きているのだ。

 

 

 

……はい。こんな感じでした。

何考えてんすかね、ほんと。新世界の神にでもなるんですかね。

まあ、こんな感じで妄想?してます。頭良い人が考えそうなことを考えてみたけど全然そんな事ないし、むしろキモイ(ド直球)オーラがひしひしと伝わってくる文ですね(にっこり)。

べつに病んでるとかじゃないですよ?「死とはなんぞや」という思いからふくらんでったものです。

 

 

長くなってしまったんで、今日はこの辺で。

 

※この話は、あくまで僕個人が風呂の中で暇つぶし(?)に考えていたものなので、矛盾が見つかったりしてもそこはご容赦願います。